東映の歴代社長の評価・評判・実績など

名前 評判・実績・評価など

五島慶太

(ごとう・けいた)

五島慶太

※創業者。東急電鉄グループ総帥。鉄道沿線の繁華街開発の一環として東映を設立。初代社長に部下の大川博氏を起用。

【生まれ】
1882年4月18日

【死去】
1959年8月14日(享年77歳)

東急電鉄の拠点である東京・渋谷を中心とする繁華街開発を目的として映画事業に参入。

出身地

長野県・青木村

創業

1938年「東横映画」設立

1938年6月8日、東京横浜電鉄(のちの東急・東急電鉄)の興行子会社として「東横映画」を設立。しかし、しばらく休眠状態となる。

戦後、再開

戦後、再び映画事業に乗り出す。1946年2月、「東横映画」社長に自らの番頭である黒川渉三(しょうぞう)氏を送り込む。

大映と提携

1947年1月、東横映と大手「大映」の提携が実現。大映は当時、大手の一角を占めていた。提携により、大映の撮影所(京都・太秦)を間借りし、東横映画が年間12本の映画を製作。大映チェーンの映画館で上映することになった。

旧満州からの帰国者を採用

東横映画は製作への参入にあたり、旧満州などの海外から日本に引き揚げてくる映画系の人材を迎え入れるする方針を決定。主に、旧満州国の国策映画会社「満映(満州映画協会)」の出身者を採用した。

撮影所長にマキノ光雄氏

また、映画プロデューサー・根岸寛一(かんいち)の推挙により、松竹に在籍していたマキノ光雄氏を起用。京都の撮影所長に充てた。後に、岡田茂氏(後の社長)とともにヒットを連発する。

「東京映画配給」の設立

さらに五島氏は、松竹、東宝、大映に次ぐ第四の配給系列を形成する構想を抱く。1949年10月、東急系の配給会社として「東京映画配給」(略称:東映配)を設立。

しかし、すぐに製作能力の不足が大きな問題となる。東横映画の制作力だけでは、全国の東映配傘下の映画館に新作を毎週提供することはできなかった。1951年正月から東宝と配給提携するが、これも東映配の急場しのぎにしかならなかった。東映配の経営は早々に追い詰められた。

「太泉映画」も苦戦

東急グループには東京に、もう一つの映画製作会社「太泉映画」(旧:太泉スタヂオ)があった。こちらもかなり苦戦していた。東横、太泉、東映配に巨額の融資をしていた東急は、株主から鈴木幸七社長、大川博専務が特別背任罪で告発される事態となる。東急グループは映画事業から手を引くかどうかの瀬戸際に立たされた。

3社合併で「東映」が誕生

ここで五島氏は大きな決断をする。大赤字の3社を一つにして、新会社を作るというのだ。合併は1950年11月に成立。1951年4月設立。これが、「東映」が誕生である。初代社長には、東急の専務(経理部長)だった大川氏を起用した。


大川博

(おおかわ・ひろし)

大川博

※初代社長。東急電鉄の経理部長から、子会社の東映に送り込まれた。

【期間】
1951年4月1日~
1971年8月17日

【生まれ】
1896年12月30日

【死去】
1971年8月17日(享年74歳)

1951年、「東横映画」「太泉映画」「東京映画配給」という倒産寸前の弱小3社が合併して「東映」が誕生。親会社の東急の専務から派遣され、放漫体質の映画人たちと格闘しながら経営を軌道に乗せた。

社長就任時の年齢

54歳

社長就任前の役職

東映社長になる直前は、東急電鉄(東京急行電鉄)専務として、グループ会社を含む会計を担当していた。

出身地

新潟県・西蒲中之口村

子供時代

7人きょうだいの末っ子。鉄道マンにあこがれ、1913年、東京の岩倉鉄道学校(現岩倉高)へ進学。1学期の試験で学年トップとなり、特待生になる。

出身校(最終学歴)

中央大学(法学部)
※1919年卒業

新卒での就職先

鉄道省(現:国土交通省)

入省後

鉄道省では、私鉄の会計監督などを担当する経理マンとして頭角を現した。

東急グループへ

1942年、五島慶太氏にスカウトされ東急電鉄に入社。当時45歳。五島氏から「数字に関する体温計」と信頼され、事業の統括を担った。

社長時代の実績・取り組みなど

借金削減

東映は設立時点で破産寸前に追い詰められていた。設立母体となった3社(東横映画・太泉映画・東京映画配給)の負債総額11億円。大川氏は借金整理から取りかかった。120枚余の不渡り手形を処理した後、高利貸と手を切ることに粉骨砕身した。仕事は連日早朝から深夜まで及んだ。「精神的、肉体的に苦しいとき、病気でなくとも血尿が出るんだ」と言っていたという。住友銀行の融資を受けて、なんとか健全経営に転換させた。

予算管理

映画制作には業界初の予算制を導入した。1本1100万円以上かけず、収入は2500万円以上がノルマ。収支書を枕元に置き、細かく点検していたという。

「週2本制作」の先駆けに

戦後発足の東映は、戦前組の松竹、東宝からみれば明らかに後発組だった。しかし、戦後の復興が進む中、娯楽の中心がラジオから映画へ移り、時代劇が解禁されると、週に2本制作する体制を強引に確立。他社に先駆けた「2本立て興行」に乗り出した。片岡千恵蔵ら所属スターを最大限に活用。「笛吹童子」 「雪之丞変化」などの大ヒットを生んだ。

美空ひばり&中村錦之助コンビ

若手スターも誕生。美空ひばりと中村錦之助(のち萬屋錦之介)のコンビで「時代劇の東映」の地位を確固たるものにした。

プロ野球「東映フライヤーズ」のオーナー

大川氏はプロ野球チーム「東映フライヤーズ」のオーナーを自ら務め、野球経営にも情熱を注いだ。毎日のように応援に出掛けた。

1961年、巨人を退団した水原茂監督を招聘(しょうへい)。翌年、リーグ制覇。日本シリーズでも阪神を下した。日本一の祝勝会では、特注の背番号「100」のユニホームを着た巨体が宙に舞った。映画とプロ野球で日本一となり、絶頂期だった。

初代パ・リーグ会長

初代パ・リーグ会長に就任。2リーグ分裂の混乱時に収拾に尽力した。

東急から独立

1964年9月、大川社長が個人で東映の株式を買い取り、親会社だった東急グループから完全に離れた。大川社長はかつての上司だった五島氏と対立するようになっており、袂を分かつこととなった。五島氏の後に東急グループを引き継いだ息子の五島昇社長の傘の下にあることを潔しとしなかった面もあったようだ。

いち早くテレビ進出

テレビ事業には映画界で最初に進出した。「テレビ朝日」を設立し、自ら会長に就任。 1965年スタートの「銭形平次」などテレビ時代劇にも力を入れた。

多角経営

テレビが普及してて映画の斜陽が進むと、ボウリング場、ホテル経営など新たな異業種にも積極的に進出した。

アニメ子会社を設立

「東洋のディズニー」を目指してアニメーションスタジオを設立する。教育映画も多数制作した。

人材育成

人材教育や育成にも力を入れた。将来を見込んだ部下には海外留学や重責のあるポストを与えて鍛えた。

ワンマン色を強める

途中からワンマン色を強めた。急激な映画の増産による過酷な労働に、現場からは不満の声が渦巻いた。しかし、あまりに聞く耳を持たなかった。社員に特別ボーナスなどはなかった。映画の質の低下を直訴した責任者を更迭したこともあった。1960年からスタートさせた「第二東映」は失敗に終わる。

長男を役員に

1966年に長男・大川毅氏(当時33歳)を取締役に抜擢。さらに娘婿の吉田治雄氏を事業部長に据えた。

この身内びいきの人事や経営方針に、労働組合はもとより、社内の部課長も猛反発する。スト騒動も起きたが、大川氏率いる経営側はロックアウトで収拾した。

心労が重なり眠れぬ日が続いたようだ。このころには体は病魔にむしばまれていた。80キロ近くあった体はやせていったという。

晩年

1971年5月ごろ入院。偽名を使い、マスコミの目から逃れた。社内外での求心力の低下を懸念し、専務以下には極秘だった。病床でも書類、伝票に目を通していたという。

逝去

享年74歳。死因は肝臓がん。

葬儀

社葬には政財界、映画やプロ野球関係者ら約4000人が参列、佐藤栄作首相も焼香した。

追悼・惜別の声

長年の友人だった住友銀行の堀田庄三会長は「先見の明と緻(ち)密な計画によって出来上がった足跡は、東映に脈々と残っている」に弔辞を送った。


岡田茂

(おかだ・しげる)

岡田茂

※後発の東映をメジャー会社に育てた大立者。「大衆娯楽」に徹した。

【期間】
1971年8月25日~
1993年6月

【生まれ】
1924年3月2日

【死去】
2011年5月9日(享年74歳)

終戦直後から60年以上にわたって映画界に君臨。「人生劇場 飛車角」など多くのヤクザ映画や「仁義なき戦い」をはじめとする実録路線で一時代を築いた。歯にきぬ着せぬ物言いと、独特のユーモアセンスで大物ぶりを発揮

社長就任時の年齢

46歳

出身校(最終学歴)

東京大学(経済学部)
※1947年9月卒業

学生時代

旧制広島一中、旧制広島高等学校を首席で通した。

入社年次

1947年10月
※前身の「東横映画」に入社

入社理由(就活状況)

当初は「物資不足で悩む日本で役立つ仕事をしたい」と製造業への就職を希望していた。しかし、東映の前身「東横映画」で働く友人や先輩に熱心に誘われた。当時は、大映、松竹、東宝が有名で、「東横映画」は無名の存在だった。

略歴

入社後、いきなり製作現場の進行係を任された。弁当運びから女優にゲタを履かせるなど、雑用をすべてこなした。荒っぽいスタッフとも、持ち前の明るさと負けん気で渡り合った。

一貫して製作畑

それ以来、一貫して製作畑を歩んだ。初代社長の大川氏に見込まれ、京都と東京の撮影所長を歴任。時代劇、任侠映画などを手掛け、東映黄金時代を築いた。例えば菅原文太主演の実録もの「仁義なき戦い」が話題を呼んだ。

・1947年、前身の「東横映画」に入社

・1951年、3社合併で東映が誕生
「京都撮影所製作課長」に抜てきされる

・1961年、京都撮影所長

・1962年、取締役(東京撮影所長)

・1966年10月、常務(当時42歳)

・1968年5月、企画製作本部長兼京都撮影所長

・1968年9月、映画本部長

・1971年、労務担当兼務

・1971年8月25日、社長(前任の大川博社長の死去の1週間後)

・1993年から会長に

・相談役を経て2006年から名誉会長

社長就任前の実績・評価・評判

「きけわだつみの声」(1950年)ヒット

1950年、『きけ、わだつみの声』をプロデューサーとして製作。学徒出陣で命を失った戦没学生たちの遺稿集だった。時代劇全盛の中で、片岡千恵蔵、月形龍之介ら大物俳優が製作にも発言力を持っており、猛反対を受けた。しかし、反対を押し切ってプロジェクトを推進。見事に大ヒットさせた。

スターを生み出す

往年のスター市川右太衛門、片岡千恵蔵、中村錦之助らの時代劇を製作。さらに高倉健、鶴田浩二、菅原文太ら数多くの映画スターを世に送り出した。

ヤクザ映画で東映の黄金時代を築く(1960年代)

1950年代終わりには時代劇人気の低迷に加えて、テレビの普及というダメ押しで、映画館は客を集められなくなっていった。

そこで低迷期にあった時代劇路線を縮小。後に自身の代名詞となる「任侠(にんきょう)映画」と呼ばれるヤクザ映画シリーズを打ち出した。

鶴田浩二主演「人生劇場 飛車角」(1963年)が成功。高倉健らを主役にした「昭和残侠(ざんきょう)伝」(1965年)、藤純子(のち富司純子)主演の「緋牡丹博徒(ひぼたんばくと)」(1968年)など大ヒットを出していった。シリーズ化にも成功。東映の黄金時代を築いた。

「東映ポルノ/エログロ路線、好色路線」を推進

また、「東映ポルノ/エログロ路線、好色路線」を推進。上品な映画人には真似できない下世話な路線にも遠慮なく突き進んだ。

合理化

製作費の高騰で赤字が増えると、人員整理や時代劇の縮小など合理化を進めた。 一方でテレビプロダクションを設立し、映画部門の人員を吸収。「銭形平次」「水戸黄門」など、テレビ時代劇が映画と並ぶ事業の柱となる素地を作った。

社長時代の実績・取り組みなど

社長就任後、他社が経営危機の荒波にさらされるのを横目に、岡田イズムを一層、徹底させていく。

実録路線で再び成功

任侠映画人気が下火になったとみるや、暴力団抗争の実話にもとづく「仁義なき戦い」(1973年)に始まる実録路線を始める。

「トラック野郎」シリーズ

1970年代後半、菅原文太主演の「トラック野郎」シリーズを成功させた。東宝の松岡功会長は、岡田氏が亡くなったときの弔辞で「東映だけがヒットを連打していた。我々も追いつきたいと考えていた」と振り返った。

プロ野球

プロ球団「東映フライヤーズ」を日拓ホームに譲渡。野球から撤退した。

京都太秦映画村をオープン

1975年、京都太秦映画村をオープン

日本アカデミー賞創設に尽力

1978年の日本アカデミー賞の創設にも尽力。これはアメリカの「アカデミー賞」の名前を何の脈絡もなく拝借したものであった。中身は茶番劇。だが、名前だけは立派に聞こえるため、メジャーな映画賞になってしまった。完全にネーミングの勝利だった。

失政

「蒲田行進曲」を断る

角川が「蒲田行進曲」の話を持ち込んできたが、岡田は「そんな内輪話みたいな映画はやめとこう」と言って断った。結局、角川が松竹と組んで大ヒットさせた。

「八甲田山」(1977年)を断る

「八甲田山」も「そんな蛇腹の話はうけない」と断った。後に東宝で大ヒットとなる。

「南極物語」(1983年)を断る

フジテレビから「南極物語」が持ち込まれた時、「そんな犬っころの話があたるかい」と断った。日本ヘラルドや東宝などが配給し、興行収入の史上最高記録を樹立した。

家族

彰子(あきこ)夫人と1948年に結婚

長男は岡田裕介氏(後の社長)

子供は1男2女。長男は次の次に社長になった岡田裕介氏

名言

「プロデューサーは10年が限度。僕は10年ずつが何回も来る」

人柄

豪放らい落な性格で知られ、歯にきぬ着せぬ発言でも知られた。バンカラな風貌も特徴

ニックネーム

「日本映画界のドン」「ミスター東映」

社外での役職

1978年から1995年まで日本映画製作者連盟会長。

著書

「悔いなきわが映画人生-東映と共に歩んだ50年」

考え方

面白い映画とは

僕は大体分かるんですよ。まずシナリオを、朗読のうまい人間に読んでもらうんだ。それを聞いていると映像が目に浮かぶ。この才能はありがたかったね。そこで脚本家と丁丁発止やるんだけど(笑い)。

映画は枝葉があってもダメなんだよ。大きな太い幹がないとダメ。感動しないんだよね。あとはとにかくワクワクする映画かな。

好きな映画

「ゴッドファーザー」
※これを観て「山口組」を映画化しようと思ったという。

逝去

2011年5月9日午前5時55分、肺炎のため東京都練馬区の病院で死去した。

葬儀

【通夜】2011年5月10日(火)午後6時

【葬儀・告別式】2011年5月11日(水)午前11時

【場所】青山葬儀所=東京都港区南青山2の33の20

【喪主】妻・彰子(あやこ)さん

【葬儀委員長】長男裕介(ゆうすけ、本名剛=つよし)氏

死亡時の役職

東映名誉会長

亡くなるまでの経緯

2011年4月に肺炎を起こして入院。

晩年の健康状態

加齢が原因で2年ほど前から足が弱り、視力も低下したことから車椅子生活を余儀なくされていた。20年近く秘書として仕えた樋口保氏(東映顧問)は「そんな姿を社員に見せたくないと1年ほど前からは出社せずに自宅で療養を続けていた。男の美学だったんでしょう」と振り返った。

最期のようす

早朝、彰子夫人(当時85歳)、長男で東映社長の岡田裕介氏(当時61歳)、長女でコメンテーターとして活躍する高木美也子さん(当時59歳)、次女の大黒晴江さん(当時54歳)ら家族にみとられて眠るように息をひきとった。

正午すぎに東京・杉並区の自宅に無言の帰宅。

追悼

北大路欣也(当時68歳)や松平健(当時57歳)らから続々と供花が届いた。


高岩淡

(たかいわ・たん)

高岩淡

※岡田前社長の弟子。製作現場育ち。自他ともに認める「映画屋」。義理人情を重視。

【期間】
1993年6月29日~
2002年6月

【生まれ】
1930年11月13日

【死去】
2021年10月28日(享年90歳)

撮影所暮らし40年

社長就任時の年齢

62歳

社長就任前の役職

専務からの昇格

人事の背景

22年間の長期にわたり社長を務めた岡田氏は交代について「法事でも23回忌で終わりだし、そろそろ代わろうと思っていた。本体は高岩君に任せて、私が外郭を固める。2頭政治が一番いかん」と語った。

出身地

福岡県

出身校(最終学歴)

九州大学(経済学部)
※1954年卒業

入社年次

1954年

入社理由

兄・檀一雄(作家)の恩人である坪井与(東映役員)の紹介で、入社試験を受けた。

略歴

岡田前社長同様、製作現場の育ち。映画づくりの情熱家。

京都撮影所長を20年間

撮影所暮らし40年。京都撮影所で製作管理・進行に携わる。

1971年、京都撮影所長(取締役にも就任)。それから1990年まで所長。なんと在任期間は20年に及んだ。この間の1986年専務に昇進。

「太秦映画村」オープン

1975年、撮影所の一角をテーマパークとして開放した「太秦(うずまさ)映画村」をオープン。

時代劇が下火になり、現代劇やロケ撮影が主流になっていったことに伴い、賑わいが失われていた。社内から「スーパーをつくれ」という声も出て、撮影所が存続の危機にさらされた。

何とか残したいとの一心から岡田社長に提案。隣接地に造った。京都の名所の一つになった。

生い立ち

母親とみ

母の高岩とみは革新的な思想を持つ明治の女傑であった。久留米の士族の娘で、檀家に嫁いで4人の子供を産んだ。そのうちの1人が後にベストセラー小説「火宅の人」で有名になる作家・檀一雄だった。

結婚10年目に離婚。その後、貿易商で4人の子連れの高岩勘次郎と再婚。高岩社長ら6人の子供を産む。

戦時中の苦しい時代、なんと計14人の子供の面倒をみた。

父親・勘次郎

キリスト教徒
※淡自身も幼少時に洗礼を受けた。日曜日に協会に通って育った。
1953年死亡。

家系

作家・檀一雄の弟(異父)

女優・檀ふみの叔父

子供時代

陸軍幼年学校に入り、14歳で終戦

学生時代

陸軍幼年学校に入学するが、半年後に終戦を迎えた。名門・修猷館から旧制高校に進んだ。

東宝、大映、松竹の後塵を拝する新興会社だった。

人柄・性格

岡田・前社長から「高岩。お前は企画能力はマイナスや。だけど、人をまとめることは日本一や」と言われた。

家族

25歳のとき、東映の経理をしていた女性と結婚。子供3人をもうけた。

社長時代の実績・取り組み・苦境など

ソフト保有数が業界トップに

同業他社が製作に二の足を踏む中、映画を撮り続けた。ソフトの保有数では業界一になった。

赤字転落

1998年9月中間決算で上場来初の赤字に転落。不動産事業の低迷と映画のヒット作の不足が響いた。

東京撮影所の一部を売却

1999年には東京撮影所の一部を売却。自社制作を減らす方針を打ち出した。

最終年にヒットを出す

在任最終年の2001年に創立50周年を迎えたが、「ホタル」と「千年の恋 ひかる源氏物語」というヒットを出して活気を取り戻した。

モットー

社長在任中「何があろうと朝9時前には必ず出社する」という師匠・岡田氏(前社長)からの指示を守り続けた。

好きな言葉

「和を以って貴しと為す」


岡田裕介

(おかだ・ゆうすけ)

岡田裕介

※岡田茂の長男
本名は「岡田剛(つよし)」。

【期間】
2002年6月~
2014年3月末

【生まれ】
1949年5月27日

【死去】
2020年11月18日(享年71歳)

オーナー一族ではないが、事実上の世襲となった。

社長就任時の年齢

53歳

社長就任前の役職

常務

前任者の新ポスト

高岩社長は会長に

出身地

京都市

出身校(最終学歴)

慶応大学(商学部)
※1972年卒業

入社年次

1988年

略歴

慶応大学在学中に俳優としてスカウトされる。1970年、映画「赤頭巾ちゃん気をつけて」で東宝からデビュー。当時20歳。

20代のうちに俳優業から退き、フリーの映画プロデューサーに転身。『動乱』『華の乱』『千年の恋 ひかる源氏物語』などのヒット作を手掛けた。

1988年東映入社。1990年東京撮影所長。「きけ、わだつみの声」や「長崎ぶらぶら節」などの企画・製作に携わった。

2000年常務。

社長就任時の抱負

「世襲」についてのコメント

「この会社は岡田茂の会社でも何でもない。創業者であったり、逆に言ったら多くの株を持っていたりすれば当てはまるのかもしれないけれども、父もある意味ではサラリーマン社長であり、会長であったわけです」「僕はこの会社の株をたくさん持っているわけでもない。東映という会社に雇われて社長をやっているという認識でしかないのです。僕がだめならば、皆さんが首を切ればいいんじゃないか」

子供時代

京都の撮影所を自分の家の庭のようにして育った。

性格・外見

スマートな物腰は、前会長の歯にきぬ着せない言動とは対照的。見た目は石坂浩二に似ている。

家族

生涯、独身を貫いた。

好きな映画

テオ・アンゲロプロス監督の作品。邦画では「浮雲」(1955年)「砂の器」(1974年)など。

逝去

2020年11月18日、急死

動画


多田憲之

(ただ・のりゆき)

多田憲之

※自ら志望し、地元・北海道でひたすらキャリアを積んだ。

【期間】
2014年4月~
2020年6月

【生まれ】
1949年9月6日

社長就任時の年齢

64歳

社長就任前の役職

常務

出身地

北海道洞爺湖町(当時・胆振管内虻田町)

出身校(最終学歴)

中央大学(法学部)
※1972年卒業

入社年次

1972年

入社理由

任侠(にんきょう)映画と藤純子(富司純子)さんに憧れて入社。

略歴

入社後、自らの希望もあって地元・北海道の支社(札幌)に赴任。50歳の時に上司の鶴の一声で本社に呼ばれるまで、28年間北海道に勤務。

この間、漫画家の石ノ森章太郎さんに頼み込んで「ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭」(後のゆうばり国際ファンタスティック映画祭)のシンボルマークを作製。東宝、松竹、東映が全国で初めて手を組んだシネコン「札幌シネマフロンティア」の開業にも奔走した。

東京に転勤後、映画宣伝部長、秘書部長を歴任。2010年取締役、2013年から常務。

家族

妻、長女

好きな映画

「女囚701号/さそり」


手塚治

(てづか・おさむ)

手塚治

※初のテレビ畑の社長。「スケバン刑事」「大奥」シリーズ、「科捜研の女」で成功。

【期間】
2020年6月~
2023年2月

【生まれ】
1960年3月1日

【死去】
2023年2月11日(享年62歳)

社長就任時の年齢

60歳

前任者の新ポスト

多田憲之は相談役に。

出身地

千葉県木更津市

出身校(最終学歴)

青山学院大学(文学部)
※1983年卒業

入社年次

1983年

社長時代の実績・取り組みなど

「ファースト・スラムダンク」が大ヒット

「ワンピース・フィルム・レッド」(2022年8月6日公開)、「ファースト・スラムダンク」(2022.12.3 公開)などのアニメが超特大ヒットに。東映にとって歴史的な興行収入をたたき出し、コロナ禍の不振を吹き飛ばした。

失敗

「聖闘士星矢 The Beginning」で大赤字

ハリウッドに製作してもらった「聖闘士星矢 The Beginning」で大赤字を出した。

「レジェンド&バタフライ」も期待外れ

東映70周年記念作品として製作した「レジェンド&バタフライ」(2023年1月公開、木村拓哉主演)も期待外れの興行成績に終わった。

逝去

在任中の2023年2月11日、癌により死去。享年62歳。

葬儀

喪主は母、美津子さんが務めた。


【暫定復帰】多田憲之

(ただ・のりゆき)

多田憲之

※会長に退いていたが、手塚社長の急死で暫定的に社長に復帰

【期間】
2023年2月14日~
2023年3月末

就任時の年齢

73歳


吉村文雄

(よしむら・ふみお)

吉村文雄

※入社以来、東映キャラクターの催事イベントなど派生ビジネスを担当。東映独自の動画配信サービスも手掛けた。

【期間】
2023年4月1日~

【生まれ】
1965年2月3日

社長就任時の年齢

58歳

社長就任前の役職

常務

前任者の新ポスト

多田憲之社長は代表権のある会長に。

出身地

鹿児島県

出身校(最終学歴)

立命館大学(文学部)
※1988年卒業

入社年次

1988年

略歴

最初は関西の着ぐるみイベント担当

1988年4月に入社し、最初の配属先は、関西の営業支社。イベント事業を担当した。関西地域で仮面ライダーなどの着ぐるみのショーを手掛けた。

・2016年6月、コンテンツ事業部長

・2018年6月、同社執行役員に就任

・2020年6月、取締役に就任。ビデオ営業部門を担当

・2021年4月、コンテンツ事業部門担当兼コンテンツ企画営業部長
※2002年、東映独自の動画配信サービス(月額制)をスタート(赤字が続いて撤退)。

・2021年6月、常務

・2022年7月、映像本部副本部長

社長時代の実績・取り組みなど

2024年、映画の製作・配給本数を、新型コロナウイルス禍前より4割程度少ない年12~13本に減らす方針を打ち出した。